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  • 2014.04.11江戸時代のシェアハウス

    以前から、何回か記事にしているが、シェアハウスという言葉は最近良く耳にするが、

    昔から名前や形が違えどシェアハウスはあった。やはり、デメリットももちろんあるが、

    メリットがたくさんある。特に、震災以降、シェアの文化は広がりをみせているので、

    シェアハウスが伸びていくのは当然かもしれない。

     

    そこで、昔のシェアハウスの記事をご紹介します。

    (現代ビジネスより抜粋)

     

    江戸時代のシェアハウスと言えば、これはもう裏店(棟割長屋)に決まっている。

    表通りに面した家が表店と呼ぶのに対し、狭い路地の奥に建てられているから裏店なのだ。

    店と名がついているが商売している家は少ない。

    裏店一軒の広さは間口九尺(約二・七メートル)奥行き二間(約三・六メートル)が一般的で、

    六畳間の座敷に三尺(約九十センチ)の土間と三尺四方の流し、煮炊きをする竈(かまど)が設えてあり、

    その上には煙抜きの窓があった。窓は引き窓で、竹の棒などで支えて空気の入れ換えができる作りになっている。

    押入れのない所が多いので、夜具は畳んで枕屛風などで囲い、人の眼に触れないようにしている。

    長火鉢、簞笥、茶簞笥、行灯などを置くと、居住空間は四畳半ぐらいの狭さである。店賃は六百文から千文程度で、

    だいたい大工の日当の二日か三日分に相当する。井戸と厠は共同で、厠の傍にはごみ溜もあった。

    現代から考えると大変に狭く暮らし難く思えるが、江戸時代の庶民のおおかたは、この裏店住まいをしていたのである。

    住人同士のつき合いは非常に濃密で、味噌や醬油の貸し借りは日常茶飯事だった。

    私は裏店住まいの住人達を小説にする時、妙に張り切ってしまう。かつて、わが家もご近所とは裏店の住人達のようなつき合いをしていた。

    お向かいのお爺ちゃんは漁師だったので、夏は毎日のように獲れたてのイカをいただいていた。

    当時は朝食にイカの刺身を食べるのが常識だった。夫婦喧嘩が起きれば、近所の人間なら当たり前のように仲裁に入った。

    昔の夫婦喧嘩は今思い出しても派手だった。よく殺人事件が起きなかったものだ。いや、仲裁に入る人間がいたからこそ、

    そこまでにはならなかったのだろう。

    毎日わが家に顔を出す小母さんもいた。私はその小母さんに大層可愛がられ、私の結婚披露宴に出席しない内は死ねないと、

    いつも言っていた。言葉通り、その小母さんは私の結婚披露宴に出席してから亡くなった。今もご近所つき合いは、

    あるにはあるが、昔ほど濃密とは言えない。それも時代の流れであろう。

    正直に言えば、今の私に昔のような長屋暮らしはできないだろう。私が生まれた当時は、

    さすがに電気と水道は通っていたが、その他は江戸時代を踏襲した暮らしだったと思う。

    私は竈を知っている。火の勢いを強める火吹き竹も知っている。茶の間には囲炉裏が切ってあり

    、鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を立てていた。

    乾いてささくれができた心に潤いをもたらすものは人と人との交わりから生まれると信じたい。そういう意味からも江戸時代のシェアハウスをテーマにした『日本橋本石町やさぐれ長屋』をご笑読いただければ幸いに思う次第である。

     

     

    是非、読んでみたい1冊ですね。

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